百恵さんにレコーディングで「泣いて歌って」、天海祐希とは性別を超えた関係
配信 2023年10月22日 07:13更新 2023年10月24日 19:19
NEWSポストセブン
谷村新司さん(享年74)死去の知らせは、日本のみならず世界中を悲しみに包んだ。名曲を通して、多くの人に感動を届けた彼は、誰からも愛され、慕われる人だった。
病気、家族、音楽……谷村さんの人生を色々な側面からたどる。【前後編の前編】
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朝からの冷たい雨は午後まで降り止まなかった。黒い傘は参列者の表情を隠したが、一様に沈んだものであることは明らかだった。東京・品川区で谷村新司さんのお通夜、葬儀が行われたのは、10月14日、15日のことだった。
「バンド『アリス』の堀内孝雄さん(73才)と矢沢透さん(74才)をはじめ、古い仕事関係者、そして近親者のみが参列しました。本当に限られた人だけが集まって最後のお別れをしたのですが、その中に谷村さんの息子さんがいらっしゃらなくて……。最後まで親子の縁が戻ることはなかったんだなと悲しみが一層大きくなりました」(谷村さんの友人)
『昴』『サライ』など長く歌い継がれる名曲を生み出したほか、『いい日旅立ち』を山口百恵さん(64才)に提供するなど、長年歌謡界を牽引してきた谷村さん。彼が最後まで苦しみ、葛藤したのは、病だけではなかったようだ。
《10月8日に息を引き取り永眠いたしました。本人も回復に向けて頑張っておりましたので本当に残念に思います》
所属事務所の公式サイトが谷村さんの死を伝えたのは、10月16日のことだった。訃報を受けて、いち早くコメントを発表したのは、アリスのメンバーだ。堀内は「また、いつか空のほとりで一緒にライブをやろうね」とメッセージを送り、矢沢は「悲しいというより悔しい」と無念をにじませた。
谷村さんが公の場に姿を見せなくなったのは、今年3月のこと。急性腸炎の手術を受け、大事をとって療養することを事務所が公表したが、症状や休養期間は「不明」とされた。3月の手術後は、地方でのイベントや渋谷タワーレコードでのポップアップショップの1日店長などを欠席。
5月にはアリスの全国ツアーの延期を発表した。さらに6月には恒例だったクリスマスディナーショーの休止を早々に発表し、「年内は治療に専念する」と伝えていた。
そんな谷村さんがなんとしてでも駆けつけたかった仕事があった。8月末放送の『24時間テレビ「愛は地球を救う」』(日本テレビ系)である。毎年8月に放送される同番組は、谷村さんが代表作詞を手掛けた『サライ』が1992年の第15回からテーマソングとして使用され、作曲の加山雄三(86才)や出演者とともに番組フィナーレで大合唱するのが恒例となっていた。
「加山さんは昨年で最後の歌唱となりましたが、加山さんの分まで頑張りたい、と番組に出演するのを楽しみにしていたのです。
しかし、ステージに立つことは叶わず、病床から“歌いに行くことができず、ごめんなさい”というメッセージを寄せました。代わってアリスの堀内さんが出演し、『いい日旅立ち』『チャンピオン』など往年の大ヒット曲を歌って谷村さんにエールを送りました」(テレビ局関係者)
アリスは昨年活動50周年を迎え、記念ライブを開催。谷村さんはメンバーと共に「ここからリスタートして10年続けよう」と約束し、復帰へ向けつらい治療にも積極的に励んでいたという。
「3月以降、腸炎以外の病気も次々に見つかったそうです。さらに予想外なことは続き、谷村さんの体質が少し特殊で、病気との相性が悪かった。治療は困難を極め、日を追うごとに回復の可能性が狭まっていったと聞いています」(前出・谷村さんの友人)
半年以上に及んだ入院生活は、事務所の社長であり谷村さんのプロデューサーでもある妻がつきっきりで看病していたという。
「最初に腸炎と発表して以降、何のアナウンスもなかったのは奥様の意向です。“本当の病状”は、世間に伝えたくなかったのでしょう。10月8日の早い時間に、病院から奥様へ危篤状態である旨の電話がきました。そしてその夜に息をひきとったのですが、最後はふたりの時間を過ごせたそうですよ。
どんなときも谷村さんの決断を尊重し、支えてきた奥様でしたから、闘病生活を終えた谷村さんに、労いと感謝の言葉を伝えたのでしょう」(前出・谷村さんの友人)
◆天海祐希との交際説も
谷村さんは1970年代にフォークグループ「アリス」のメンバーとしてヒット曲を世に送り出し、一時代を築いた。1980年に発売したソロでのシングル『昴』は国内のみならずアジアでも大ヒットし、とりわけ中国では空前の人気曲となった。
「谷村さんは1981年には北京で日中共同コンサートを開催し、その後も日中友好に尽力してきました。
2007年に温家宝首相(当時)が来日した際の日中首脳会談での晩餐会、2010年の上海万博の開会式、そして2018年9月に北京で催された日中平和友好条約締結40周年の記念式典と、日中関係の節目となる大きな行事では必ずといっていいほど谷村さんが『昴』を熱唱してきたんです。彼はいまもなお、中国国内で絶大な人気を誇っています」(音楽関係者)
ほかの歌手に提供した楽曲も数多く、1978年には百恵さんの名曲『いい日旅立ち』を作詞作曲した。
「当時、百恵さんは『横須賀ストーリー』や『プレイバックPart2』など、少しはすっぱなイメージで売り出されていました。しかし、谷村さんは百恵さんに“国民的な歌手になってほしい”と思い、子供からおじいちゃんおばあちゃんまで、誰もが口ずさめるような歌を作ろうと考えていた。
曲ができてすぐに谷村さんが百恵さんに電話をすると、百恵さんが『聴かせてください、いますぐに』というので、谷村さんは受話器を耳に挟み、ギターを弾きながら歌ったのです。百恵さんは感動し、『素晴らしい』と声を上げたそうです」(当時を知る音楽関係者)
国鉄(現在のJR)のテーマソングとして書かれたこの曲は、谷村さんの願い通り、年代を問わず誰からも愛される曲となった。谷村さんと交流があった音楽プロデューサーの川瀬泰雄さんも、百恵さんに真っ正面から向き合う谷村さんの姿が忘れられないという。
「谷村さんが『いい日旅立ち』より前に百恵に作詞作曲した『ラスト・ソング』という曲のレコーディングに、谷村さんも来てくれていました。そこで彼からあったリクエストは、百恵にレコーディングのときも泣いて歌ってほしいということ。
百恵は、感情をかなり込めて、泣くぐらいのギリギリのところで歌ったのですが、谷村さんは“泣かせてください”って言うんですよ。ぼくはライブならともかく、レコードになるので、泣きながら歌わせるのは嫌だと反論したのですが、谷村さんは引かない。何回かそういうやりとりがあった後、谷村さんはスタジオを出ていってしまった。
やはり、ぼくは、音程が乱れるギリギリのところでレコーディングをしました。仕事で、あれほど熱く真剣に話し合ったこともすごく印象に残っています」
意外な人物との交流もあった。そのひとりが天海祐希(56才)だ。
「天海さんが宝塚を退団したばかりで、まだ20代後半の頃からですから、かれこれ30年近いつきあいです。仕事の関係者を通じて一緒に食事をする機会があり、意気投合。コンサートや舞台などにお互いを招きあう関係になったとか。過去には、天海さんが休暇でハワイに行っている間に、谷村さんも現地入りしたとして、“交際”がまことしやかに報じられたこともありました」(芸能関係者)
しかし、実際には男女ではなく、性別を超えた家族のような関係だった。
「谷村さんは2011年に『僕らの音楽』(フジテレビ系)で天海さんと共演した際に、“息子”のようにかわいがっていると話していました。本当に親子みたいに仲がよかった。
彼女は谷村さんの実の息子さんの結婚式にも参列したんですよ」(前出・芸能関係者)
※女性セブン2023年11月2日号