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徳川家康がひそかに自らの手本として尊敬していた戦国最強武将の名前

信長でも秀吉でもない…
2023年4月6日 08:00
PRESIDENT Online

徳川家康はなぜ天下人になれたのか。作家の加来耕三さんは「失敗にも敵にも歴史にも学ぼうとした貪欲な姿勢にある。そのきっかけとなったのは、生涯唯一の大敗戦である『三方ヶ原の戦い』だった」という――。
※本稿は、加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。



※写真はイメージです 写真=iStock.com/Josiah S
家康が生涯唯一の大敗戦から学んだこと
1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦いは、家康が生涯に一度の完敗を喫した合戦として、後世に伝えられています。三方ヶ原の戦いは、徳川方の戦死者1180名、対する武田軍は200余に過ぎず、と伝えられています。

無謀にも名将信玄に真正面から挑んだ家康の「男気」は、後世、家康の武勇談となって伝えられますが、この敗戦から学んだことのほうが、家康にとっては一瞬の「男気」より何倍も大きなものでした。

家康が初陣を果たしてまもなく参陣した桶狭間の戦いで、2万を超える今川軍に対し、信長が2000の兵で敵の大将・今川義元を討ち果たし、勝利をつかんだ、との報に接したときの驚きと昂奮は、生涯忘れられないものだったに違いありません。


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ですが、この時の家康はいただけません。感情的に高ぶっている人間には、そもそも冷静な状況判断はできませんでした。桶狭間の義元と三方ヶ原の信玄とでは、武将のタイプが違うのだ、という当たり前のことさえも、判断がつかなくなっていたのでしょう。

この敗戦後、家康は人生観が変わるほどの猛省をしています。天才信長のやり方を真似しても、そもそも卓越した才能のない自分には無理であった、ということを骨身に染みて思い知ったのです。

では、どうするか。

家康の選択は、「勉強法」の基礎である「真似ぶ」姿勢を存分に発揮したこと。これこそが、家康の「勉強法」の基本でした。


武田信玄の強さの源は何か
学ぶべきモデルを、家康は懸命に諸国の大名、武将の中に探し、その結果、大敗した敵の大将・武田信玄にいきついたのです。

中国の兵法の古典『孫子』は、こう説きます。

「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む」

勝つ軍隊は、まず勝利の条件を整えてから戦うが、敗れる軍隊は、まず戦ってからあわてて勝利の条件を整えようとする、という意味です。

信玄の強さの源は、まさにこれ=“真似ぶ”であった。ひらめきや奇策に頼るのではなく、常に堅実で道理にかなった戦い方によらねばならない。

家康はそのことに、九死に一生の中で気づいたのでした。

単に兵法書による机上の学問としてではなく、実際の合戦から、とりわけ大敗戦から学んだことは、家康にとって貴重な財産となりました。


関ヶ原の戦いに生かされた“ある戦法”
家康が、三方ヶ原の戦いで信玄から学んだことは、主に以下の3点です。

一つ目は、この合戦で信玄が採用した戦法です。

たとえば、合戦の際、最も疎かにしてはいけないのは、時間との勝負であるということ。圧倒的な兵力差がある場合、敵が籠城していたなら、それをじっくり力で攻めるのが一般的な戦のセオリーです。



高野山 持明院所蔵の武田信玄像。NHK大河ドラマ特別展「風林火山 信玄・謙信、そして伝説の軍師」図録より。(図版=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
しかし、三方ヶ原の戦いで信玄は、家康方に浜松城に籠城されては、城を落とすのに時間がかかり過ぎる、と考えました。その間に家康の同盟者・信長のさらなる援軍が到着して、城内の籠城軍と後詰めの織田軍とで挟み撃ちにされることも警戒したのです。

そこで浜松城内の徳川軍を、三方ヶ原におびき出してから叩く、という作戦を採りました。この時の信玄の作戦は、のちに、家康によって、関ヶ原の戦いに活かされることになります。

1600(慶長5)年9月15日の関ヶ原の戦いの時、石田三成をはじめとする西軍の主力は、美濃大垣城に本拠を構え、東軍との決戦に備えていました。