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県庁所在地の名前が違う「19道県」の知られざる事情

神奈川県なのに「横浜市」、愛知県なのに「名古屋市」…県庁所在地の名前が違う「19道県」の知られざる事情
 
2024年3月16日 12:00
PRESIDENT Online

都道府県名と都道府県庁所在地の名称が同じところと違うところがあるのはなぜなのか。『消えた都道府県名の謎』(イースト新書Q)の著書がある評論家の八幡和郎さんは「戊辰戦争の勝敗が影響しているという人もいるが、まったくの都市伝説だ。廃藩置県の時点では、すべての県で県名と県庁所在地は一致していた」という――。
都道府県名と県庁所在地名が異なるのは19道県
たいていの県は県庁所在地と同じ名称なのに、北海道は札幌市で神奈川県は横浜市、愛知県は名古屋市――。このことを不思議に思ったことはないだろうか。

47都道府県のうち、その名称が漢字表記も含めて都道府県庁所在地と同じ所は28ある。多数派であるが、一致しない所も19あり例外というほど少ないわけでない。また、一致しているといっても、県都の名称がそのまま県の名称になったわけではないところもある。


 
国土地理院都道府県と都道府県庁所在地1」より
廃藩置県時点ではすべて一致していた
都道府県と県都の名称がどうやって決まったのか、地元の人でも誤解していることが多い。戊辰戦争幕府軍に味方した藩は藩名を消されたという説もあるが、これは根拠がない。この都市伝説は、1941年に宮武外骨というジャーナリストが『府藩県制史』(名取書店)で唱えたものである。

廃藩置県(305府県)の時点で、旧藩では県の名称はすべて県庁所在地名だった。しかし、県庁所在地が旧城下町だった県では、旧藩士が「県が旧藩の延長だ」という間違った意識を持たないように、県名を県庁のある郡名に改称するところが出た。

また、旧幕府領を中心に、特殊事情で県庁のある地名でも郡名でもない県名となった県もあった。そうした歴史的経緯を、拙著『消えた都道府県名の謎』(イースト新書Q)を基に解説したい(北海道・沖縄は経緯が少し違う)。


明治維新後、地方制度は目まぐるしく変化
しばしば、江戸時代の日本は300藩に分かれていたと人口に膾炙しているが、実は江戸時代に「藩」という言葉はほとんど使われておらず、大政奉還の時点で281人の大名がいて、その領地は俗に言う会津藩なら「松平肥後守御領知」などと呼ばれていた。また、領地は飛び地状に散らばっており、たとえば、彦根藩は東京の世田谷や栃木県の佐野を飛び地にしていた。

 
王政復古ののち、地方制度は目まぐるしく変わった。1869年の版籍奉還によって府藩県三治制となり、旧大名領は藩と呼ばれるようになって、それ以外の幕府領などは、東京・京都・大阪の3府と40ほどの県に分けられた。

そして、1871年7月14日に廃藩置県が行われ、3府302県となった。この間にも藩や県の設置・廃止があって、藩の数は版籍奉還の時点で282、廃藩置県の時点で261であった。


1872年の廃藩置県当時の日本の都道府県地図[画像=吉田東伍 他『大日本読史地図』(冨山房)/PD-Japan/Wikimedia Commons]
会津藩加賀藩薩摩藩は公式名称ではない
さらに、10~11月に規模をそろえるため第1次府県統合が行われ、3府72県と約4分の1になった(北海道は開拓使、沖縄は琉球藩でこの数字の外数である)。これが、現在の都道府県のルーツである。そこから徐々に合併が行われ、1876年には、3府35県となった。

この区分けはほぼ合理的なものだったが、旧国・旧藩の対抗意識などからどうしても独立したいという運動が起き、山縣有朋らが精査して、明治21(1888)年に3府1道43県にまとめられたのである(複数の県が合併したときは原則として元の県の県庁のひとつを継承したが千葉県と宮崎県では中間地点が選ばれた)。

旧幕府領の県名は旧名だったり、郡名だったりもしたが、藩を引き継いだ県の名称については、廃藩置県の段階では、すべて府藩県庁のある都市名と一致していた。だから、廃藩されたのは加賀藩でなく金沢藩であり、薩摩藩会津藩紀州藩なども公式名称としては存在したことがないのである(会津は国直轄の若松県となった)。

 
ただ、同じ名前の府藩県が存在したり、地名らしくないとして藩名が変えられたところも多かった。

秋田(久保田)、岩崎(秋田新田)、松嶺(松山)、大泉(鶴岡)、石岡(府中)、六浦(金沢)、加知山(勝山)、峰岡(三根山)、清崎(糸魚川)、豊橋(吉田)、舞鶴(田辺)、亀岡(亀山)、真島(勝山)、鴨方(岡山新田)、生坂(岡山新田)、高梁(松山)、豊浦(府中)、厳原(府中)がそれである。


旧藩名を県名に引き継ぐデメリット
静岡藩の改名理由は少し特殊だ。徳川宗家が江戸から府中(駿府ともいうがこちらが正式名称)に移ってきたが、「不忠」に聞こえるとして静岡に改名して、これが藩名となった。

とくに、県名がかつての藩名と一緒だと、法的な性格も領域も旧藩とは違うのに、旧藩士たちが「旧藩と連続性がある」という意識を持ち、県政に介入することが多かったからである。

最初は戊辰戦争の負け組となった仙台で問題になったが、官軍側だった金沢、宇和島などでも同様だった。そこで、政府は改名を許可したのだが、そのときに、政府が推奨したかどうかはともかく、県庁がある郡名にするところが多かった。

現在も残っている県名で言うと、岩手、宮城、茨城、群馬、埼玉、山梨、石川、愛知、三重、滋賀、島根、香川である。また、現在は消滅したものとしては、印旛(佐倉)、新治(土浦)、筑摩(松本)、額田(岡崎)、足羽(福井)、犬上(彦根)、名東(徳島)、三潴(大川市榎津)、白川(熊本)がある。


 
埼玉は当初、岩槻が県庁所在地候補だった
ここからは特殊事情があった都道府県について説明していく。

秋田は久保田といったが、廃藩置県直前に都市名を郡名である秋田にした。

千葉は鎌倉時代に関東の名族・千葉氏の本拠だったところだが、千葉氏の名字は千葉郡に由来している。

佐賀は竜造寺氏や鍋島氏の本拠地となり、城も城下町も肥前国佐嘉郡にちなんで佐賀と名付けられた。

大分は、もともと府内が大友宗麟や江戸時代の松平氏の城下町の名だが、郡名を取って町も大分と改称した。

宮崎は、鹿児島県に編入されていた都城県と美々津県が独立するときに両県の中間地帯に新しい都市を建設し、郡名をとって県名と都市名を宮崎とした。

鹿児島は、室町時代から島津氏の館が郡内にあったが、江戸時代の初期になって島津家久が鹿児島城を築き城下町の名ともなった。

埼玉の場合は、もともと城下町で日光御成街道の宿場でもあった岩槻に県庁所在地を置こうとしたが、適当な建物がなく浦和宿に県庁を置いた。ただ、浦和は足立郡なのだが、県名は岩槻の所在地の埼玉郡からとったままになった。その後、2001年に浦和・大宮・与野の3市が合併するときに、さいたま市となった。2005年に岩槻市も合流したので、部分的だが晴れて郡名と一致したと言える。


藩士の影響で金沢県が石川県に改称
石川では、金沢藩(加賀藩)の旧藩士が県政に干渉することに怒った県令が1872年、県庁を金沢から石川郡美川(現在の白山市)に移して、県名も金沢県から石川県とした。のちに県庁は金沢に戻ったが、金沢もまた石川郡内だったので県名はそのままになった。

 
三重では、第1次府県統合では南部が度会県、北部が安濃津県となった。伊勢外宮があり幕府の山田奉行所周辺が度会郡であることに由来し、安濃津は津の別名である。しかし、安濃津県庁は1872年に四日市に移転し、郡名を取って三重県となった。翌1873年に県庁は津に戻ったが県名は三重県のままで、度会県と合併した後も変更されなかった。

栃木は、北部の宇都宮県と南部の栃木県が1873年に合併して栃木町に県庁が置かれ、栃木県となった。三島通庸が県令だった1884年、宇都宮に県庁を移したが、県名はそのままになった。


群馬県庁は前橋と高崎で移転を繰り返した
群馬では県庁をめぐって高崎と前橋が争奪戦をして、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』で主人公となった杉文(楫取美和子)の夫、楫取素彦が県令の時に前橋に落ち着いた。前橋も高崎も群馬郡だが、群馬が県名となったのは高崎に県庁があったときのようだ。

神奈川の場合、県庁は神奈川宿の南隣に開発された開港地・横浜に置かれたが、県名は奉行所の名前である神奈川を採用した。

兵庫は古い港町で、その東側に神戸が開港地として建設され、県庁所在地になった。県名は神奈川と同じような事情で古名をとった。

岐阜の場合、第1次府県統合では県庁は幕府の美濃郡代があった笠松にあったのだが、県名は岐阜県となり、1874年に県庁も現在の岐阜市に移転した。詳細は不明であるものの、早くから移転が決まっていたということだろうか。

愛媛は、宇和島県では旧宇和島藩士の県政介入が懸念されるとして1872年に神山県に改称し、同じ伊予国の松山県も石鉄県になった。1873年に両県が合併したとき、『古事記』に「伊予の国を愛比売といひ」という記述があることから遊び心で名付けられた。


 
東京都の都庁所在地はあいまいなまま
北海道は、1886年に函館県、札幌県、根室県の3県が廃止され、札幌に北海道庁が置かれた。北海道というのは東海道山陽道などのアナロジーであり、同時にアイヌ語で「この地に生まれた人」を意味するカイという趣旨もあって名付けられた。

沖縄は、もともとは沖縄本島のことらしい。1872年に「琉球藩」となり、1879年に琉球処分沖縄県となり、県庁は那覇に置かれた。

東京都では、かつては府庁が東京市麹町区神田区と合併して千代田区)にあり、都市名が採用されたが、1943年に東京市は廃止された。ちなみに、現在の都庁は新宿区西新宿にあるが、ここは1932年までは豊多摩郡淀橋町だった。


愛媛に「温泉県」は誕生せず
こうして、各都道府県の事情を見てきたが、都道府県庁のある都市名を採用するか、郡名を採用するかにおいては、漢字や語感も関係していそうだ。

たとえば、松山市の郡名が「温泉郡」で軽すぎるとか、高知市土佐郡旧国名と同じになってしまうとか、長崎市彼杵郡で難読だとかいった点が、郡名が避けられた理由でないだろうか。

九州は県名と県庁所在地がすべて一致しているという人もいるが、7県のうち4県(佐賀、大分、宮崎、鹿児島)は都市名も郡名を起源としていることを知らないか、忘れているようだ。いずれにせよ、戊辰戦争の勝ち負けとはなんの関係もないのである。

[歴史家、評論家 八幡 和郎]