バンブーズブログ

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屁理屈は価値観を伴わない理屈だ‼️

「理屈とは、自分の価値観を拠り所にした意見の理由だ。一方、屁理屈は価値観を伴わない理屈だ。価値観に支えられた意見をぶつけ合うのが議論なのだから、『主観を交えるな』というのは道理が通らない」という――。
意見は、価値観と理屈でできている
意見とは、ある事実を自分の「価値観」で評価し、そこに「理屈」を伴わせた言葉です。価値観は事実に対する評価で、理屈とは意見の理由です。

では、あなたの理屈(意見の理由)が強固であれば、相手はあなたの価値観を受け入れざるを得なくなり、あなたは議論に有利になるでしょうか。

それは「単純にそう言えない」というのが私の考えです。

というのも、ある物事について賛成の立場をとる人と反対の立場をとる人は、往々にして同じことを問題にしており、しかも同じくらい理屈の筋が通っている場合が多いからです。

同性婚」で考えてみましょう。賛成派も反対派も問題にしているのは、次のように、「①結婚制度の意味や存在意義」、「②結婚制度における人権や平等」といったことで一致しています。

同性婚賛成派……「①結婚制度とは、望んだ相手と家族という1つの共同体を形成することを保証するものである。したがって②異性カップル、同性カップルにかかわらず、誰もが等しく結婚できる権利を有するべきである」

同性婚反対派……「①結婚制度とは、子を為し、血のつながった家族をつくることを保証するものである。したがって②結婚できる権利は子を為せる者の間で、すなわち異性カップルだけが有するべきである」

ご覧のように同じことを問題にしているうえに、いずれも形式上の筋は通っています。論理矛盾は見られません。では、どこで対立しているのかというと、理屈ではなく価値観の部分です。

 
「どちらが正しいか?」ではなく「自分はどちらの理屈を選びたいか? (どちらの理屈を正しいとする立場でありたいか?)」という価値観こそが自分の意見の拠り所であり、結論を分ける分岐点なのです。


「理屈の正しさ」で勝負しても溝は埋まらない
反対意見の人を説得し、多数決による合意形成に至りたいときも、価値観こそが拠り所となります。

自分には理屈がある。相手にも理屈がある。

「理屈の正しさ」で勝負しようとしても溝は永遠に埋まりません。合意形成の大半は理屈の正しさではなく、価値観を説明することによってなされるものといってよいでしょう。


※写真はイメージです 写真=iStock.com/itakayuki
価値観による「評価」だけでは「好き嫌い」を言うばかりになり、「意見」のレベルに達しません。これでは議論にならないので、理屈を立てることは重要です。しかし、「理屈至上主義」になってはいけません。

理屈至上主義では、「筋が通っていれば正しい」→「しかし、どの理屈も筋は通っている」→「いったい何が正しいのか?」というジレンマに陥るのが関の山です。

意見を意見たらしめるのは、「理屈の大前提に横たわっている自分の価値観」です。議論においては、「自分は、いかなる価値観にしたがって理屈を立てようとしているのか?」「いかなる価値観に支えられた理屈を支持したいのか?」をつねに意識することが大切です。

 
まとめ
・価値観こそが意見の拠り所であり、結論を分ける分岐点になる。
・価値観を説明することで合意が形成される。
・議論では、「どんな価値観で理屈を立てるか」をつねに意識することが大切。

価値観を伴わない理屈は「屁理屈」である
理屈で相手を論破する人がもてはやされがちな昨今、理屈至上主義に陥る人が意外に多いのかもしれません。議論において主観を交えるのは、「単なる感想」を言っているだけであり、タブーと思われている節もあります。

こうした風潮は、そもそも議論というものの性質を大きく見誤っています。

「議論」とは互いの意見を投げかけ合うことであり、投げかけ合う「意見」は、価値観と理屈の両輪でつくられるもの――ここまで読んできた方なら、理屈至上主義の何が誤りなのか、もうおわかりでしょう。

価値観とはもともと主観的なものです。その価値観に支えられた意見をぶつけ合うのが議論なのですから、「主観を交えるな」と言うのは道理が通りません。

「理屈」を伴わない価値観は単なる「評価」です。先ほどの「好き嫌い」「けしからん」と同じです。ならば「価値観」を伴わない理屈は何かというと、単なる「屁理屈」です。いずれも議論を成立させうる「意見」とは呼べず、より悪質なのは屁理屈です。

世の中にはじつにさまざまな議題があります。その議題ごとにとる立場に一貫性をもたらす背骨のようなものが「価値観」です。

価値観を交えて話さない人には、その背骨がありません。ゆえに議論するテーマごとに見れば理屈が通っているようでも、俯瞰すると一貫性がなくて、矛盾があります。議論ごとに、いわゆる「逆張り」をし、論点ごとにそのつど自分の価値観とは関係なく少数派の意見を支持し続ける、ネットの「炎上屋」もその類いです。