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なぜ秋篠宮家は「アンチ学習院」なのか…何人もの皇族方が通ったという伝統と実績を無視した本当の理由


2023年6月24日 12:00
PRESIDENT Online

秋篠宮家の長男・悠仁さまは筑波大学附属高校に通学されている。皇族が学習院以外の高校に進学するのは戦後初めてのことだ。長女・眞子さん、次女・佳子さまは大学から学習院を離れ、国際基督教大学に進んだ。昭和女子大現代ビジネス研究所研究員の藤澤志穂子さんは「秋篠宮家の『学習院離れ』からは、天皇家との微妙な関係が読み取れる」という――。
※本稿は、藤澤志穂子『学習院女子と皇室』(新潮新書)の一部を再編集したものです。



春の園遊会に臨まれる天皇、皇后両陛下と秋篠宮ご夫妻、同家次女の佳子さま=2023年5月11日午後、東京・元赤坂の赤坂御苑 写真=時事通信フォト
皇族の「学習院離れ」が進んでいる
学習院大学に進学しない選択をした皇族は、決して眞子さんが最初ではありません。読売新聞は2010(平成22)年1月7日付記事「[気になる!]皇族方 なぜ学習院離れ」で、このテーマを取り上げています。この記事によれば、最初は高円宮家の長女、承子女王でした。

承子さまは学習院女子高等科を卒業後、学習院女子大に進みますが退学。英エディンバラ大学に留学した後、2008(平成20)年に早稲田大学国際教養学部に1年生として入学します。戦後生まれの皇族で、留学以外で学習院以外の大学へ進んだ初めてのケースでした。

 


2009(平成21)年には高円宮家の三女、絢子女王(守谷絢子さん)が城西国際大福祉総合学部に入学。2010(平成22)年には眞子さんがICUに、悠仁さまがお茶の水女子大学付属幼稚園にそれぞれ入られました。承子さま、絢子さんの他校進学が多少なりとも影響した可能性はありそうです。

この記事でも説明されていますが、学習院は1884(明治17)年に宮内省所轄の官立学校となり、1926(大正15)年公布の皇族就学令で、皇族は原則として学習院で学ぶことが定められます。

戦後にこの就学令は廃止され、学習院は私立学校となりますが、引き続き、ほぼすべての皇族方が、幼稚園などから学習院のお世話になってきた慣習がありました。


「時代のニーズに応えられなくなっているのかもしれない」
それでも他校に進まれるケースが増えてきたのは、学習院で学べる内容が、必ずしも皆様方のニーズに合わなくなってきたことが推測されます。これは一般の生徒・学生にとっても同じことが言えるのかもしれません。

2010(平成22)年当時の学習院大学は文学部、法学部、経済学部、理学部の4学部で久しく新学部を設置していませんでした。いわゆる「伝統的な学部」であり、医薬や芸術、福祉などの分野を学びたい生徒が他大へ進学するケースは少なからずありました。

いっぽうで大学の側では、例えば2004(平成16)年に秋田県国際教養大学が設立されるなど、地方でも英語で学べる国際関係の学部や大学の創設が相次いでいました。生徒たちの変わりゆくニーズに、学習院大学が追い付いていたとは言いにくい状況だったかもしれません。

 


読売新聞の記事は、「承子さまは、留学生が多く英語で授業が行われる学習環境を、絢子さまは児童福祉のコースを望まれた」「眞子さまは、入学後の2年間は専攻を決めず幅広く一般教養を学べる大学として、国際基督教大を選ばれた」と伝えており、あわせて当時の学習院長、波多野敬雄氏の「確かに時代のニーズに応えられなくなっているのかもしれない。学部を増設する必要性は感じている」との言葉を紹介しています。

こうした経緯がきっかけの一つとなったのか、学習院大学に国際社会科学部が新設されたのは、この記事が発表されてから6年後の、2016(平成28)年4月のことでした。



学習院大学正門(写真=momoishi/CC-Zero/Wikimedia Commons)
秋篠宮家の「アンチ学習院」志向
ただ、そうしたことを踏まえてもなお、秋篠宮家には「アンチ学習院」の志向が強いように見えます。眞子さん、佳子さまの大学からのICU進学だけではありません。悠仁さまに至っては幼稚園からお茶の水女子大学附属で、高校で筑波大附属に進むなど、学習院には全く縁がありません。

学習院が否定された」とプライドを傷つけられたような寂しい思いを感じたOB・OGも少なからずいたようです。悠仁さまはなぜ、学習院幼稚園にすら進まなかったのでしょうか。

学習院幼稚園は明治時代、現在の学習院女子中・高等科のルーツとなる華族女学校に男女共学で設置、太平洋戦争中に保育を停止、戦後に廃止されました。復活は1963(昭和38)年、当時の浩宮徳仁親王(現在の天皇陛下)を受け入れるためでした。満4歳の年次から入園する「2年保育」であり、紀宮清子内親王黒田清子さん)ほか、複数の皇族が1年だけ別の幼稚園に通ったのち、学習院幼稚園に入園しています。

 


いっぽうお茶の水女子大学附属幼稚園は、満3歳の年次から入園する「3年保育」です。これが悠仁さま入園の決め手になったとみられています。

お茶の水女子大学付属幼稚園は、東京女子師範学校附属幼稚園として1876(明治9)年に開園した日本最古の幼稚園です。お茶の水女子大では母の紀子さまが、日本学術振興会の名誉特別研究員として健康と心理学をテーマに研究を続けています。同女子大では、子どものいる女性研究者を支えるため、附属幼稚園や小学校の特別入学制度を新設しました。その適用第一号が悠仁さまだったのです。


愛子さまの長期欠席がもたらした影響
教育水準は高く、学費は私学より安い。将来の天皇が学ぶ幼稚園としては申し分ないようにも見えます。学習院で、皇族として定められたコースを進むより、より一般社会との接点を増やした人間関係を培うべき、と秋篠宮家が考えたとしても不思議はありません。皇室は時代に即して変わっていかなければ、という考え方もお持ちだったでしょう。

また、兄の天皇家の一件も頭の片隅にはあったかもしれません。2010(平成22)年には愛子さま学習院初等科を長期欠席、宮内庁学習院が3月5日にそれぞれ、このことで会見するという異例の事態がありました。

 


3月6日付の朝日新聞記事によれば、宮内庁野村一成東宮大夫(当時)が同級生の父母たちに問い合わせた結果「同じ2年の違うクラスの複数の男の子が、愛子さまを含む他の児童に乱暴なことをしていることがわかった」と説明。

いっぽうで学習院の東園基政・常務理事は「愛子さまを特定のターゲットにした直接的な暴言や暴力は一切ない。報告を受けていない」と説明。両者の見解はやや食い違っていました。これが「いじめ」だったのか、どの程度のものだったのかはわかりませんが、親の立場からすれば心配なのは当然でしょう。

現在の学習院は、戦前と異なり、皇族も一般生徒と同じ扱いです。学習院に入り、最初は物珍しく見えた皇族方のお姿も、次第に日常に溶け込んでいくというのが筆者の実感です。当然、普通の学校で起きるようなことは起きてしまいます。

ただ、見えないところで、教員や職員が受け入れに際し、宮内庁皇宮警察、そして地元の警察署とも連携し、教育や警備などに細心の注意を払っています。過去、何代もの皇族方を受け入れてきた蓄積とノウハウは、他校にはないものです。



※写真はイメージです 写真=iStock.com/maroke
皇族方を受け入れるノウハウがあるのに…
そうした環境の整った学習院秋篠宮家が、あえて選ばなかった理由は明確ではありません。秋篠宮ご夫妻も、その後のご一家も深い縁があり、学習院側も気を配ってきたはずです。

一方、受け入れ態勢のない学校が、その準備にかける負担も並大抵のことではないでしょう。そうした周囲を慮る気持ちは、秋篠宮家にどのくらいあったのでしょうか。

ご結婚前の紀子さまは、父の川嶋辰彦さんが学習院大学経済学部教授だったことで、当時、目白の学習院構内にあった教職員宿舎に住み、ご成婚当時は「3LDKのプリンセス」とうたわれました。

 


家賃は相場より格安、かつ教職員の子女が学習院に通う場合、学費は半額だったと聞きます。また川嶋氏の研究活動による渡米、渡欧では学習院を一旦休学、帰国後には、在籍して進学したのと同じ学年に戻れる制度があり、それを活用しました。

なお、秋篠宮さま(当時は礼宮文仁親王)に関しては、こんな「都市伝説」めいた話が学内では伝えられていました。殿下が学習院高等科から学習院大学に内部進学する際の成績の足切りラインが「その年だけ引き下げられた」らしいというのです。

学習院内で、付属の高校から大学への内部進学率は、現在は5~6割程度ですが、殿下が進学された1980年代は女子で9割、男子で7~8割でした。普段の成績に加え、推薦資格を得るための試験があります。その足切りラインのことだったようです。

ただこの話は、あくまでも都市伝説の類だったと筆者は見ています。当時の殿下は中・高等科時代、そして大学に進学してからも、家庭教師について必死に勉強されていたと聞いています。


国際基督教大学を諦めきれなかった佳子さま
学習院では成績が悪ければ義務教育の中等科でもかつては留年があったなど、進級・進学には厳格な規定があります。

筆者の同級生の中にも、中2や中3を2回経験したり、高校から大学に進学するための点数が足りず、他大や専門学校に進んだりした生徒がいました。同じ部活の憧れの先輩が落第し同級生となり、戸惑った同級生もいました。礼宮さまはもちろんそんなことはありませんでした。

佳子さまはいったん、学習院大学の文学部教育学科に進みました。2013(平成25)年4月に新設されたこの学科は小学校教員免許を取得することができるもので、佳子さまは一期生として入学したのです。

 


当然ですが一期生にはどの大学でも期待がかかり、志願倍率も高くなります。佳子さまにも将来は、児童生徒の教育に携わって頂きたいという期待が、学習院および秋篠宮家にもあったでしょう。

しかし佳子さまは2年生で中退し、ICUを受験して入り直しました。これについては「眞子さまの挑戦したICUAO入試に失敗され、やむなくいったん学習院大学に進んだものの、諦めきれなかったそうです」という証言が、学習院OGの間から出ています。

万全の体制で迎え入れた結果、袖にされたのでは、学習院も立つ瀬がありません。学習院大学に進まず、浪人してチャレンジすることはできなかったか、とも思います。


OB・OGたちが感じ取った「ライバル意識」と「学歴偏重」
ともすれば頑なに見える秋篠宮家の姿勢には「天皇家に対する複雑な思いがあるのでは」との指摘が、学習院OB・OGの間には根強くあります。

天皇陛下は、在学中から学習院のオーケストラに所属し、卒業後も演奏会に出演するなど熱心に学習院との交流を続けておられます。学内でお見かけするご様子はいつも落ち着いておられる印象でした。

いっぽう秋篠宮さまの印象は、よく伝えられる通り、「やんちゃな次男坊」といったところでしょうか。大学では「自然文化研究会」というサークルを主宰、自ら勧誘されたとされる川嶋紀子さん(後の紀子さま)を始めとするご学友と一緒に行動されていました。



藤澤志穂子『学習院女子と皇室』(新潮新書
優等生的な天皇陛下に対し、次男として何らかの劣等感や辛さ、居心地の悪さを感じておられたのではないか、とみるOBもあります。「将来を見据えて育てられた長男と、比較的、自由に育てられた次男」といった違いはあったのかもしれません。

そんな事情を含めてのお二人の違いを、ある学習院OBはこう評していました。

「学内の運動会などで、誘導されなくても貴賓席に進んで座るのが秋篠宮殿下、率先して一般席に座ろうとし、周囲を慌てさせてしまうのが天皇陛下

この天皇陛下のために、運動会当日に早朝から一般席を確保する役目を仰せつかった父兄がありました。その気遣いを察知した陛下はその後、貴賓席に座るようになったそうです。皇族の気苦労は私たちにははかりしれないものがあります。


皇嗣家となった秋篠宮家と天皇家の微妙な関係
いっぽうで悠仁さまの誕生で、皇嗣家となった秋篠宮家には、天皇家に対する微妙な「ライバル意識」のような思いを持たざるを得なくなった側面もあるのでしょう。

悠仁さまを学習院ではなく、お茶の水女子大附属に幼稚園から進学させたのは、保育年数の違いというより、ゆくゆくは学習院よりハイレベルの学校に進ませたいという思いがあったとしても不思議ではありません。

紀子さまの教育熱心さを、ある官僚は、消息筋の話として「何とかして悠仁さまを東大に推薦で入学させたいと、いろんな制度を調べておられると聞く」と打ち明けます。