配信 2023年10月24日 07:15更新 2023年10月24日 08:57
NEWSポストセブン
何の予兆もなく“その日”がやって来れば、混乱の中で最愛の人の死を受け入れなければならない苦しみと対峙することになる。
「少し華やかな色の服を着たり、今日は鉢植えを変えようなど一日ひとつやることを見つけたりして、日々の生活を楽しんでいます。最近はアフォガードに凝っていて、いろいろな店を食べ歩くのも楽しい。いろんなお店でいただいています」
笑顔でそう話す柏木由紀子(75才)は最近、SNSで披露するファッションが注目され「シニア世代のおしゃれ番長」とも呼ばれている。
しかし彼女は38年前、混沌と絶望の渦中にいた。1985年8月12日、乗客乗員520人が死亡し、4人が重症を負った日本航空機墜落事故。夫の坂本九さん(享年43)も二度と帰ることのない乗客のひとりだった。
「あまりにも突然の出来事で、テレビで『坂本九』という名前が連呼されたけれど、私と小学生の2人の娘は聞こえないふりをして家族の中でも話題にしませんでした。パパは海外に長く出かけていて、いつか帰ってくるような感覚で過ごしていたんです」(柏木・以下同)
しかし現実を受け入れざるを得ないときがやって来る。
「私たちはこれからどうなるの? ママが働かないと食べていけないの?」
葬儀が終わってしばらくして、娘たちにこう聞かれたのだ。
「子供がそんなことまで心配しているのかと胸が痛み、わが家を守るため、子供を安心させるために仕事を再開しました。それまで何でも夫に頼りっぱなしだった自分が、“負けていられない。頑張らなくちゃ”と180度変わりました。変わらざるを得なかったというところもあります」
再開して最初の仕事は1986年1月。坂本さんが長く司会を務めた広島のテレビのクイズ番組を引き継ぐ形だった。
「スポンサー会社の専務から『広島は原爆でどん底に落ちてからよみがえった。だからこの地であなたの仕事を始めてほしかった』と声をかけていただいて、それがすごくうれしかった。
当時は全国のかたがたからものすごい量の温かいお手紙をいただき、その中には同じ境遇の人たちからのものもあって毎晩、子供が寝静まってからひとりで読んで泣いていました。新幹線に乗っていると『頑張ってください』と書かれたメモを手渡されたり、町で声をかけられることも多かったです。多くのかたから励ましていただいたことにはいまでも本当に感謝しています」
歌手としてはもちろん、映画や舞台の俳優、テレビ番組の司会としても多方面で活躍し、人望が厚かった坂本さんだけに多くの仕事仲間が柏木と子供たちの行く末を気にかけた。
「テレビ黎明期から一緒に仕事をしていて特に主人と親しかった黒柳徹子さん(90才)とは何度も夜中に電話をかけ合って一緒に泣きましたし、娘の宝塚の初舞台を見に来てくれたこともありました。徹子さんとは数年前まで一緒に初詣に行くのが恒例でした」
ある年の大晦日、黒柳から「明日からハワイに行く」と聞いた柏木は、「私も行っちゃおうかな」と思い立った。
「主人は家族で移住を考えたこともあるほどハワイが大のお気に入りだったので、黒柳さんの言葉を聞いて、思い切って飛行機に乗ってひとりでハワイに行きました。現地では黒柳さんと偶然お会いして盛り上がりましたよ」
当時のことを黒柳はエッセイ『小さいときから考えてきたこと』にこう綴っている。
《やっぱり、九ちゃんが上から見ていて、まるでマリオネットでもやるように、柏木さんと私を近づけてるんじゃないの? 柏木さんが寂しくないように。そうじゃなかったら、絶対、私たちが逢うはずは、ないもの》
「主人を亡くした直後、周囲からは『時が解決するよ』と言われて、“私の気持ちがわかるはずがない”とすごく腹が立ちました。だけど結果的に子供の存在と多くの人の優しさに助けられて歩き出すことができた。38年の間、うれしいことも少なからずあったことは確かです。そういう積み重ねが自分を支えたのかな」
【プロフィール】
柏木由紀子(かしわぎ・ゆきこ)/1947年東京都出身。1964年に、映画『明日の夢があふれている』で女優デビュー。1971年に坂本九さんと結婚。長女は女優の大島花子で、次女は女優の舞坂ゆき子。3人の共演ステージも多数。
※女性セブン2023年11月2日号