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“日本でいちばん狭い村”「舟橋村」

“日本でいちばん狭い村”「舟橋村」には何がある? 平成の間に人口が倍増しているナゾ
 
配信 2024年4月29日 06:10更新 2024年4月29日 08:25
文春オンライン

〈金沢でも福井でもない…北陸新幹線“どことなく地味なターミナル”「富山」には何がある?〉から続く

 都会に住んでいる人の偏見をさらけ出すと、“村”というのは田舎に行けば行くほど多くなるものだと思っている。村のほとんどは一面の田園地帯か、それとも山奥か。ふだん、“村”に触れる機会がほとんどないのだから、そういうイメージを抱いても無理なかろう。

 
【人口が平成の間に倍増】“日本でいちばん狭い村”「舟橋村」を写真で一気に見る

 だから、たとえば北陸。金沢や富山といった大都市は馴染みがあるが、それ以外には小さな村がいくつもあるんじゃないか、などと思ってしまう。平成の大合併で多くの村が姿を消した、などと言われてもピンとこない。北陸の山間集落や広大な田園は、都会人の抱く“村”のイメージにピタリ合う。

 ところが、調べてみると北陸三県、すなわち富山・石川・福井の中で、村はたったひとつだけだという。

 北陸唯一の村は、富山県中新川郡舟橋村。地図で見ると、富山市街地から東にだいたい9kmくらい。富山平野の真ん中、西側に常願寺川が流れる田園地帯の村らしい。このあたりは、都会に居ながらにして思い描く村のイメージにそぐう。

 が、実際にどんな村なのかは、行ってみなければわからない。富山駅からは富山地方鉄道というローカル私鉄に乗って15分。せっかく富山までやってきたのだから、少し足を伸ばして“北陸唯一の村”を歩いてみることにしよう。

 

北陸地方で“唯一の村”「舟橋村」には何がある?
 舟橋村の玄関口は、富山地鉄本線の越中舟橋駅だ。新幹線富山駅のすぐ脇の駅ビルから出ている富山地鉄の電車に乗ると、しばらくは富山の市街地の中を走る。車窓が田園地帯に変わるのは、常願寺川を渡ってから。越中舟橋駅常願寺川を渡ってからふたつ目の駅だ。

 村のターミナルといっても、この駅は実に小さな駅だ。相対式のホームがふたつ。北側には舟橋村の図書館が併設されているものの、改札口に駅員の姿はない。無人駅、というわけだ。

 
 

ひとけのない駅舎を抜けると正面に…
 ひとけのない駅舎を抜けると、小さな駅前広場に出る。正面には、「日本一ちっちゃな舟橋村」の文字。舟橋村の面積は3.47平方キロメートル。これは、文字通り日本国内の市町村では最も狭いのだという。

 ちなみに、お隣の富山市富山県内のうち30%ほどを占める広大な面積を持ち、全国の市町村の中でも11番目にデカい。とてつもなく大きな町ととてつもなく小さな町が、隣り合っているのだ。

 越中舟橋駅の駅前には、郵便局や小さな商店がいくつかあるくらい。少し歩くと、県道4号線に出る。トラックをはじめ、多くのクルマが絶え間なく行き交っており、この地域一帯のメインルートになっているのだろう。

 駅前から県道4号線に通じる角には、古代この地を治めた豪族の古墳をそのまま活かした神明社。県道の北側の向こうには、北陸新幹線の高架も見える。

 

県道沿いを歩く。実は「富山駅まで15分」の近さ
 県道沿いを少し歩く。さすがに交通量に比して、県道の周りには小さな市街地が形成されている。比較的真新しい戸建て住宅が集まっているゾーンもある。富山駅まで15分という近さは、ベッドタウンとしても利便性が高いのだろう。

 ただ、県道から離れて踏切を渡り、富山地鉄の線路の南側に出ると、風景は田園地帯に変わる。むしろこちら側の方が、舟橋村の本領なのだろう。まだ田植えの時期を迎えていない北陸の田んぼ。その奥には、いくつかの工場も見える。

 
 富山県は北陸三県の中でも指折りの工業県だ。富山市街だけでなく、郊外にもこうした内陸工業団地のようなものがあるあたりは、いかにも工業県らしい風景といっていい。

 ただし、舟橋村は実に小さな村である。だから、少し歩くだけで村外に出てしまう。田んぼの向こうの工場が舟橋村の中なのか、それとも外なのかはよくわからない。

 広がる田んぼ、そしてその中にいくつかの住宅がまとまっている住宅ゾーン、そしてまた田園地帯。そんな風景の中を歩く。

 

南に向かって歩くと、川沿いに満開の桜並木が見えてきた。これは…
 南に向けて進むと、見事に咲き乱れる桜並木が見えてきた。村の真ん中を南北に流れる小さな小川、京坪川。その川沿いには桜の木が植えられていて、一角には親水公園も設けられている。まさに、舟橋村民憩いの場。村役場や村立の小学校、中学校などもこの川の周囲にあるから、村の中心というのはこのあたりになるのだろうか。

 京坪川は、村の北部を流れる白岩川の支流だ。これらの河川は、歴史的にも大きな役割を果たしてきた。富山平野の真ん中の舟橋村は、古くからの農村地帯。駅南東側にある仏生寺というエリアには仏生寺城が築かれて細川氏が治めていたという記録もある。

 ただ、基本的にはいまと変わらず田んぼが広がる村だった。江戸時代には前田氏加賀藩領となっている。そして、舟橋村一帯は白岩川や京坪川などを活かした舟運の要になっていたという。

 明治のはじめには、「ばんどり騒動」という農民一揆の舞台にもなっている。駅の北側にある無量寺というお寺を根拠地にして、一帯の農民たちが年貢の減免を訴えたものだ。

 
 しかし、役場はそれを無視。農民たちは無量寺を出て滑川に向かい、竹槍や木の棒を武器に役人たちと戦ったのだとか。こうした一揆の舞台になったのも、舟橋村が舟運の要としての地位を確かなものにしていたからこそだ。

 その後も舟橋村は、ずっと変わらずに富山平野の農村として歴史を刻む。富山平野の中心部として都市化が進んだのは常願寺川を挟んだ向こうの富山市だ。それを横目で見ながら、舟橋村は近世以来の農村であり続けた。

 

富山平野の農村」におとずれた“変化のとき”
 そんな中、1931年になると富山電気鉄道(現在の富山地方鉄道)の越中舟橋駅が開業している。1928年に就任した稲田健治村長が精力的に働きかけた結果、多少のルート変更によって舟橋村にも鉄道がやってきた、というわけだ。

 越中舟橋駅は、以来90年以上にわたって村の玄関口としての役割を担い続けている。もちろん昔は有人、つまり改札口に駅員さんのいる駅だったが、1980年代後半には無人化の動き。

 そこで、舟橋村は駅を拠点とした新しい町づくりに乗り出した。駅舎に図書館を併設し、さらにそれを中心として中心市街地を整備。パークアンドライドのための駐車場なども整えたのだ。

 この頃の舟橋村は、多くの村がそうであるように人口の減少に悩まされていた。村内全域が市街化調整区域になっており、住宅地などの開発ができなかったことが大きな要因のひとつだ。

 そこで、1988年には市街化調整区域から外し、1989年には村営住宅を造成。過疎化の食い止めに本腰を入れてゆく。

 
 

平成の時代で人口が倍増、転入数も出生数も増加傾向をキープ…って、なぜ…?
 それが功を奏し、平成の初め頃には1400人前後だった村の人口は、いまでは3000人を超えるまでに増えている。2010年度時点での15歳未満の人口比率は21.8%で日本一。平均年齢も40歳代で、いまでも転入者数や出生数も増加傾向をキープし続けている。

 年代別人口構成を見ても、男女ともに働き盛りの40代から50代がボリュームゾーン。他の都市では高齢者に偏りがちな人口ピラミッドも、これが日本の村なのかと思うくらいに若い世代の比重が大きくなっている。

 富山の中心市街地まで富山地鉄で15分という利便性、またのどかな田園風景の中にあること、子育ての環境が整っていること、住宅地などの造成が続いていること。いくつも要因は挙げられるのだろうが、少なくともここまで人口を増やし続けている村は他にない。

 村どころか日本中で“衰退傾向”が顕著になった平成の30年間。そこにあって、いち早く対策に本腰を入れて人口を増やしてきたというのは、先見の明があったというべきか、それとも他の町が何もしなかっただけというべきか。

 

2時間も歩けば回り切れてしまう村が人口を増やし続ける「ヒント」
 越中舟橋駅を中心に、村の中をうろうろと歩いてもせいぜい2時間もあれば終わってしまう。舟橋村は、それくらいに小さな村だ。

 よく晴れた日にやってきたから、遠く東の向こうには立山連峰がよく見える。田園地帯が大部分を占めている風景も、昔とそれほど変わっていないのだろう。

 
 ターミナルの越中舟橋駅は、図書館が併設されているといっても無人駅。駅前に繁華街があるわけでもない。県道沿いにはコンビニなどはあるけれど、お世辞にも賑やかな駅前とは言い難い。少なくとも、同じ時間帯を切り取れば富山駅前とは雲泥の差といっていい。

 しかし、そうした村でも人口を増やし続けることができる、というわけだ。ちなみに、越中舟橋駅併設の図書館は、よく住民に利用されているのだとか。住民一人あたりの年間貸出冊数は25冊以上で、これも日本一。

 村内に大きな本屋がないから、とケチをつけたくなるが、電車で15分の富山駅に行けばいくらでも本は買えるからそういう問題でもないのだろう。このあたりに、小さな村が人口増を続けてゆくヒントのようなものがあるような気がするのだが、いかがだろうか